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2023.12.16

山梨水晶工業組合

 山梨水晶工業組合
昭和六年(一九三一)五月に山梨県水晶組合を設立、昭和初年以来世界的不況の影響と、業者の製品の売り崩しがはじまり、水晶業界は深刻な不振に陥った。各組合とも次々と手を打ったが、落日にも似た退勢を立て直すことは難題であった。製品の生産制限をこころみたが、業者(装身具関係)の約六割が休業したという。このような苦境を打開するために、昭和九年十一月、甲府市の取り計らいで、甲府市役所の会議室に、甲府物産商業組合、および峡南地方の水晶販売業者と製造業者の各代表七十余名が集まり、業界の更生対策を協議し、水晶業界の経営改善を期し、相戒め、相扶け共存共栄をもって、国産水晶の声価向上に邁進せんことを期す。という決議を行い、対策事項の実施を申合わせた。
◎対策事項
(1)県下各地「峡南、岳麗、御岳」に販売業者の商業組合を設立すること。設立後は速やかに県連合会を組織し斯業の統制を図ること。
(2)水晶の声価を保持するため標準価格を制定すること。
(3)本県主要物産取締規程を制定し、水晶の声価保持に関する取締りを県に要求すること。
(4)声価維持のため不当の乱売および誇大の広告をなさざること。
右決議する。
決議に基づいて乱売を防ぎ誇大な広告を廃し、水晶の声価向上を図ることになったが、峡南地方の通信販売業を手とする大手六社より、営業の範囲、取引先の関係、価格などの点が、異なっているのにこれを同一の条件のもとで画一的に拘束することは穏当ではないと反対の意見の表明があり、結局各地区別に商業組合を設立し、県連合会を組織することとなった。甲府市と地方業者との同一歩調は不可能とされ、標準価格は実行されず、業界は依然として不況を続ける年代であった。(『水晶宝飾史』)

2023.12.05

山梨県印章業組合の変遷

 山梨県印章業組合の変遷
明治三十年、甲府市桜町土屋宗幸らによって業界最初の団体「甲府水晶組合」が結成された。
明治三十七年に甲府水晶同業組合は、重要物産組合法により結成されたが、運営方針をめぐり幹部の意見が対立し、明治四十年に実際の運営を見ずに解散した。(『水晶宝飾史』)
大正時代に入って産業組合法の施行により産業組合の設立が盛んに行われるようになり、印章業界人の組合の設立が各地で起こった。
大正六年十一月、甲府水晶篆刻同業組合結成される。
細部については不明である(『水晶宝飾史』)
大正十年八月、甲斐水晶販売同業組合が結成され組合長は長田政五郎で、組合の規約がのこされている。この組合の規定によると組合員は山梨県一円に散在し事務所を岩間村(六郷町)都築屋旅館に置いた。その目的として、販売品の粗製乱造の矯正、篆刻の改善、値段の統一、相互の親睦と国産の隆盛などである。目的達成のために組合員は商業道徳を重んじ販売にかけては競争をさけ、事情によっては山梨県水晶篆刻連合会、峡南印商業組合、峡南印章サック組合等に交渉することもある。と決議されている。
右の三組合は、これ以前に結成されていたと見られるが、設立内容が明らかではなく資料不明である。(『六郷印章誌』)組合員には石類印研磨・篆刻業者を加入している。
なお、「山梨県商工人名録」(大正十二年十月現在)には水晶産業所として次の名が記録されている(『水晶宝飾史』)
◎甲府市
常磐町 甲斐物産商会、柳町 玉泉堂 土屋愛造、桜町 柳沢政吉、桜町 精美堂、八日町 上原勇七、柳町 七沢斉宮、柳町 長田白太郎 柳町 一瀬しずか、常磐町 望月広行、柳町 天野武雄、春日町 小宮山国造 八日町 甲斐水晶工業(合)
◎ 郡部(加工場のようである)
市川大門町 丹波政義、岩間村 篠原正広、岩間村 芙蓉堂、渡辺 武、岩間村 南陽堂、岩間村 士橋水晶店、岩間村 勝平堂 鮎川商店、楠甫村 甲富園 笠井金作
峡南印章業組合
昭和元年(一九二六)八月十八日以前の設立であるが、その設立やその後の経過は不明である。(『六郷町誌』)組合員は峡南の印章関係者と甲府市の水晶印材生産者らである。

2023.11.21

署名と刻法

 著名と刻法「落款」
作品が書き上がったら、その余白に作者の名前を入れ、誰が創ったかサインをする。落款とはそのサインのことである。刻法は本文と変わらない。簡単なもので自分の「印」一つを添えるだけのものであり、丁寧なものでは「いつ」「誰のために」「どこで」「どういういきさつで」「誰の詩文を」「自分が書いた」といったようにことこまかに記入する場合もあるが、一般にはサインをして印をつける。時とサイン「署名」と捺印というのが普通である。「そのための約束ごと」
「自著」雅号を書いて印を添えるが尊敬する人に差し上げる作品とか心をこめて書くものなどの場合には雅号にせず姓名を書く。
「雅号」心の糧としている本から取ったり、土地「山・川」や好きな植物などから名をつけたりするペンネームのことである。
この時に添える言葉に注意することがある。
たとえば「如流」という号は水にちなみ、また人生を詠じた語句なので「山人」をつけるのは釣り合いがとれない「如流漁徒」「如流道人」ならピッタリという。
◎雅号の下に付ける語
・山人 仙史 幽人 樵夫 山樵 樵客
・逸士 逸民 逸人 閑人 逸士隠士
・陳人 陳史 外史 散史 散人 虚士
・野人 野史 ?人 道人 居士
・漁師 漁徒 漁釣 漁夫 漁滴 釣人
・雅人 老人 翁 女史
「注意」自作の誌歌の場合、自分の名または雅号の下に書の字を書かないこと

2023.11.04

技能士検定制度

 技能士検定制度定まる
昭和三十四年労働者の能力と地位の向上を図るを目的として、技能検定制度が発足する。(労働省)先駆者の血を受けて印章王国山梨の名声にふさわしく数多くの一級技能士の資格取得者がうまれ印章山梨をささえているのである。平成五年度の取得者を列挙すると(地域別 順不同)次の通りである。 佐野年秀 望月利光 芦沢逸男 相川 勝 佐野弘和 望月高弘 笠井嘉一 渡辺寛 小林成利 赤池辰雄 望月章 小林和生 望月貫一 宮沢広志 斉藤安司 望月富司 小林和雄 上田隆資 大柴儀彦 伊藤寿一 片田宏文 小林成仁 伊藤昭夫 小林喜美仁 望月平 伊藤美智子 若林正利 遅沢祐二 片田克己 (六郷町)
有野忠良 久保元 有野正次 横森省三 太田和子 志村和代 ◎村松徳平 笠井富士男 滝沢金光 赤池東洋一 田中創造 森本徐 田草川恵一 堀内洋 川崎昌宏 (甲府市)
遠藤昭 村松清 豊田勝 立川正仁 ◎立川武次 遠藤清 赤池強 (市川大門町)
小林殻 河西純雄 岩松良典 上田勝章 玉木旭 土橋輝雄 和田和 佐野和人 二宮千草 (下部町)
望月將司 望月明敏 笠井良徳 若林恵仁 (中富町)
赤池清光 望月登 (増穂町) 望月安三 本田晟三 (昭和町)
立川智 (竜王町)
一級印章彫刻技能士検定委員「山梨委嘱」
中央職業能力開発協会 社会法人全国技能士会連合会」より依嘱
◎内藤香名 有野玉章 笠井嘉一 小林 毅
山梨県寅刻技能工の受賞者
昭和五十二年六月十一日 笠井嘉一
全国印章技術大競技大会において「実印の部」金賞
昭和六十年十月十一日 小林成利
現代明光百選に選ばれる
卓越技能章を労働大臣賞受章する
昭和六十一年十月十九日 笠井嘉一
全国印章技術競技大会において「角印の部」金賞
昭和六十三年十月三日 小林和雄
一級技能士全国技能競技会において「グランプリー賞」労働大臣賞受彰する
昭和六十三年十月十六日 笠井政一
全国印章業組合連合会主催の技術競技大会において「篆刻の部」中央職業能力開発協議会会長賞受彰する
平成二年九月二日 立川智
全国印章技術大競技会において「角印の部」特別賞 労働大臣賞受章する
平成二年九月二日 森本 徐
全国印章技術大競技大会において「判下の部」特別賞「熱海市長賞」を受賞する
平成四年十月三日 上田勝章
全日印連技術大競技会において「角印の部」金賞
平成四年十月三日 佐野利秀 上田隆資
全日印連技術大競技会において「篆刻の部」金賞

2023.10.28

山梨の篆刻家

 山梨の篆刻家
印章篆刻の伝統を調べると、いろいろな説が見られる。織田時代の細字家は、苗字帯刀の篆刻師である。承応二年(一六五三)に中国より独立禅師が長崎へ渡来して篆刻を伝えたという伝承。延宝五年(一六七七)に中国より心越禅師が来朝して奈良の興福寺に住み篆刻の刀法を伝授した。など篆刻の伝承はさまざま伝えられている。
山梨県の篆刻家は、江戸時代中期の享保、天明(一七二二~八四)ころ、高芙蓉(本名大島孟彪)が有名である。出生は甲府市で、京都に遊学して教養を深め、有名な文人、画人とも親交が深く、画をよくし、特に篆刻かとしては印聖と称された人である。水晶篆刻の創始者ともいわれている。
明治・大正時代にかけて篆刻師、として活躍した有名人は『印章世界』の三井峡江は、「甲州印人伝」として次の十六氏をあげている。
大島芙蓉 安達畴邨 高田緑雲 河西鴨江 芦野楠山 斉藤香雲 山本硯堂 松浦羊言 望月楽天 河西笛州 標 兜谷 内藤香石 小林素峰 氏原小楠 遠藤拝山 鈴木桂洲
これらの篆刻家の弟子の中から優れた篆刻家が多数輩出していったのである。
明治二十七年六月発行の「甲斐繁昌記」による名篆刻師は次の通りである。
甲府市 含章堂 長田宗春   (穴山町一丁目西側)
      玉潤堂 土屋松次郎 (八日町一丁目北側)
      推金堂 土屋宗幸   (桜町四丁目東側)
      金生堂 土屋友次郎 (柳町二丁目西側)
      国華堂 山田白峰   (柳町三丁目大神宮前)
      耕石堂 山内竹塢   (柳町三丁目西側)
      金声堂 藤森奇谿   (常磐町第十銀行東)
岩間村 晶光堂 渡辺素堂
韮崎町 金精堂 新藤喜作
台ヶ原村 小倉屋 細田政造
このほか樋口硯斉、依田東渕の名が挙げられる。いずれも印章王国山梨を育み、生み出した篆刻の名人たちである。
注・一般的に篆刻とは石類、金属類を刻することをいい、彫刻とは木口物を刻することを呼んでいた。

2023.10.18

出商販売

 出商販売
明治二十年(一八八七)、六郷町鴨狩津向の河西万次郎は、小田原から東海道筋・三重・京都・大阪・四国地方まで出張販売したという記録が河西家に残されている。(『六郷町誌』)
明治三十年(一八九七)前後の岩間足袋産業の崩壊とともに、遠藤常太郎(六郷町岩間)、望月政五郎(同町楠甫)らは、特に大々的に出商による印章販売を行い、売子(勢子ともいう)十数人を連れて水晶石の販売を続けていたという。印章のほか数珠、指輪・置物・印伝袋物等も商品の中に加えていったようである。副業であったハンコの販売がいよいよ専業に変わってゆく時代である。これらの販売員たちは正月と盆の二度・帰宅し、一年中全国を巡り木口印も加わり大分、業績を上げていたようである。
商いの方法としては、ある町で一週間から十日間くらい仮の店舗を設置し地方新聞に折り込み広告を出し出店を需要者に知らせ、店頭から町中に幟りを何本か建て、師から町へと次々と移動し、全国を巡回するという出張販売方式を取っていた。この方法は昭和十五年ごろまで続いたそうである。

2023.10.14

① 判子(ハンコ)文化を護る意味

 

判子(ハンコ)文化を護る意味

本当にハンコは『無用の長物』なのだろうか。河野太郎行革大臣が、行政改革の一つの柱として、行政手続き上の押印廃止を進めたことで、ハンコが悪者扱いされるにいたってしまったことは悲しむべきことであると私は思う。

伝統は、歴史のなかで取捨選択を繰り返してもなお人々によって守られてきたものであり、長い間の風雪に耐えながら蓄積されてきた叡智の結晶ともいえる。

千年以上にわたって用いられてきたハンコ文化を、目先の合理主義によっていとも簡単に廃止しまうことに何の迷いもないというのは、実におそろしいことではあるまいか。

便利でよい文化であるから長年用いられてきたのであり、『ハンコをどのようになくすか』でなく「なぜハンコが長年用いられてきたのか」の問題意識を向けてもらいたいと思う。

ハンコは、テレビなどが煽るように、本当に不便で不要なものなのか考えてみたい。

2023.10.10

通信販売

 通信販売
水晶材は宝石に準ずるとあり(『水晶宝飾史』)、郵送することは禁止されていたのであるが、印章業界などの強い要望により、明治二十三年(一八九〇)に郵送が許可されたので、通信販売の道が開かれた。
明治三十四年(一九〇一)七月、甲府市柳町三丁目の国花堂篆刻師山田白峰が、水晶印の通信販売の広告をするとあり、これが最初の宣伝ではないかと思われる。このようにして明治二十年のなかば頃より山梨県下の印章販売は、通信行商と両論によた爆発的な売れ行きとなり篆刻師は販売の実績の向上とともに増加していった。六郷町のいわゆる河内地方では、大正三年(一九一四)落居村(六郷町)の遠藤良一が「甲南水晶商会々報」を発行し、その広告欄を使い印章販売をしたのが最初であるとされている。
昭和六年(一九三一)九月におきた満州事変を契機として、大陸(台湾・朝鮮を含む)に通信販売が進出するようになり、出商販売と共に盛んに行われるようになった。国中地方の通販業者は不明であるが、六郷町には大手の通販業者が設立され国内はもとより、海外への営業を伸ばし大もうけ儲したようである。当時の大手通信販売業者は、
昭和八年 日本水晶(株) 笠井暉一 (旧岩間)
昭和九年 帝国水晶(株) 笠井善三 (旧楠甫)
昭和九年 日満水晶(株) 遠藤政一 (旧落居)
昭和九年 甲州水晶(株) 都築尭春 (旧岩間)
昭和九年 東洋水晶(株) 望月修三 (旧落居)
昭和九年 昭和水晶(株) 鈴木 奏 (旧鴨狩津向)
このほか大小の国内向けの通信業者が多数あった。
山梨水晶(株)米沢良知(下部町)は、昭和初期より通信販売を開業し、噴射篆刻法を開発した。昭和十二年ごろには甲府市桜町(中央四丁目)に篆刻師を多数雇用して生産まで一貫した大々的な会社を設立した。
昭和十六年、太平洋戦争に突入すると、若者は出征・微用に狩り出され、昭和十五年の「奢侈品等製造販売制限規則」の実施等により、印章経営に大きな影響を与えるようになり、昭和十七年「企業整備令」が発令されるなど、戦時色はいっそう深まり業者は自然淘汰のかたちで消滅していった。

2023.10.04

通信販売と出商販売

 通信販売と出商販売
出商の始まりは明治三十年(一八九七)前後といわれ、通信販売も明治三十六年(一九〇三)にははじまっており、「甲府物産商報」の中にはぶどう酒・ワシなどもいっしょに通販の商品となっている。明治三十六年に国鉄甲府-八王子間が、同三十九年には塩尻まで開通するに当たり出商販売もますます盛んとなり、明治四十年(一九〇七)頃よりハンコ産業の隆盛期が出現するのである。

2023.09.27

山梨県の印章業の発展

 山梨県印章業の発展
前述の通り印章王国山梨は、水晶研磨技術の発展と平行して著しく伸展するのである。明治二年(一八六九)国内の水晶原石の採掘が自由になると、同六年に着任した藤村紫朗県令(県知事)は殖産工業発展のため、同九年六月、甲府城跡に県立勧業試験場を創設し、推奨加工場併設。業界の発展に尽力した。受講生の一人、市川大門町の長田市太郎は成績優秀のため、研磨技術の先進国である清国(中国)へ半年間派遣され先進地の技術を習得し、明治十一年長田氏は家族とともに甲府へ移り、清国伝習水晶細工所を創設した。と文献にある。
明治初期より明治二十四年に至る間は印章店を明らかにする資料は少ない。その中で甲府市の南陽堂田草川印房が、同家の家計によって明らかになった。それによると創業は明治十年と記され、甲府市中央四丁目(旧柳町)の田草川印房の現当主田草川恵一は、その三代目である。
明治十八年(一八八五)出版の『山梨県甲府各家商業便覧』には、金、銀、水晶、版木、御印判師谷村貞七(号幽蘭)がただ一人掲載されている。
明治二十四年発行の『甲府市内商業評判』の中に、柳町一丁目・土屋松次郎、柳町二丁目田中清次郎の二名が出ているだけであるが、明治二十七年(一八九一)発行の広告「山梨繁昌明細記」には次の業者が連載されている。
甲府、柳町 南陽堂 八日町 玉潤堂 柳町 清玉堂 三日町 玉泉堂 寿町 精美堂 桜町 土屋宗幸 柳町 含章堂 柳町 玉曜堂 柳町 土屋友次郎 柳町 丹沢駒次郎 郡部・富里村 佐野加久太郎・西島村 修竹堂 身延町 三桝屋 五開村 望月儀助
右十四の印章業者が記載されている。
この明治二十七年の山梨繁昌明細記の中に掲載されている広告欄には、他の四‐五倍ぐらいのスペースをとり南陽堂田草川印房(店主田草川徳次郎)が大きく宣伝している。広告では、徳次郎は清国人から篆刻の刀法技術を修得し、金・銀・銅・鉄・玉石などの印材を使いお客さんの要望にこたえます。また、甲州産の水晶は緻密精工で他に真似の出来ないような彫刻をしますので倍旧の御用を仰せつけられたい。と宣伝している。また、「創設明治十年」とみえるので、この業界では最も古い印章店ではないかと思われる。
「広告」
創業明治十年 甲府市柳町
南陽銅 田草川徳次郎
○ 篆刻師
茅堂義、従来寅刻斯業に勉勵罷在候所、江湖諸氏ノ御愛顧ヲ蒙栄候段感謝ノ至リニ堪ヘス、爾後猶斬道ニ刻苦黽勉曽テ清国人ニ就キ親ク学ヒ得タル刀法ヲ以ッテ、金銀・銅・鐵・玉石等総テ御下命ニ隋ヒ、彫刻仕ルヘク候、就中等国産水晶ノ如キハ最モ緻密精工風韻雅致ヲ旨トシ、他人ノ模擬シ能ハサル様彫進仕候間、冀クハ倍旧御用向仰付ラレン?ヲ謹告。
(明治二十七年・『山梨繁晶明細記』より)
難解な字句を並べた広告文は、その時代を知る貴重な資料である。また、この『山梨繁昌明細記』の末尾に、日本橋大伝馬町三丁目刻師芦野楠山(本県出身の篆刻の大家)の名前が記されている。
これらの各種刊行物や、その他の広告、折込を利用した宣伝販売が国内にもぼつぼつ始まった時代と推測される。
このころ博覧会や共進会への作品の出品参加もあり、約束郵便による通信販売業も出現し、行商販売と、これらの努力により山梨のハンコは全国へ浸透普及していった。
県外の印章店も盛んに宣伝するようになった。大正時代の広告の一部を記載する。これは千葉県のもので広告のスローガンが面白い。
(1)大発展の広告活眼を開き活文を見たまふべし
(2)首とつり替の元素諸君必ず熟読したまふべし
(3)文意貫徹せば手の舞ひ足の踏むをしらざるべし
と三つのスローガンが購買力をかりたてている。
「大発展の広告活眼を開き活文を見たまふべし」
大正三年
出張営業所開設広告 祥雲堂謹白
  月
出張営業所開設広告 祥雲堂謹白
◎幣舗印刻、業明治十八年中開店以来其我ヲ選ビ其裂ヲ精ウシ且ツ其成工ノ期日ヲ愆ラザルトニ因リ諸彦ノ愛顧ヲ辱ラシ陸続貴囑ヲ蒙ルニ至ル然ルニ遠隔ノ地ヨリ御注文ノ節態々御来臨ニナルモ事故アリテ即時ノ後需要ニ應ジ兼候事往々コレアリ實ニ幣家ノ常ニ憾ミトスル所ナリ因テ今回鶴舞町ニ於テ毎月一六ノ日出張営業致シ諸君ノ便宜ヲ謀ラントス請フ遠近ノ貴客倍舊ノ光顧ヲ垂レタマヒ陸続御注文アランコトヲ希望ス
○方今本朝古印體ナルモノ盛ニ行ハレ官私共ニ之ヲ称用ス然レドモ作家多クハ古印ノ典型ヲ講究セズシテ従ラニ変怪ハカリカタキ漫?ノ迹ヲ?シテ以テ古體を得タリスルハ豈概嘆ニ堪エザランヤ今ニシテ之レヲ矯正セズンバ終ニ俗戯ニ墜チントス弊堂斯ニ感アリ因テ木朝古印體ナルモノヲ?して華客ノ展覧ニ供ス
○仰印章ノ要タルヤ精確ナラザレバ信用ヲ示スノ具トナスニ足ラズ今ヤ我邦萬般ノ技芸日ニ將ニ美術の聲月ニ盛ニシテ朝野ヲ論ゼズ貴賤共に高尚優美ノ風ニ做ヘリ誰カ拙刻?悪ノ印章ヲ用ユル?ヲ欲セザラン夫レ實印ハ財産保護ノ要具ニシテ苟モ家産ヲ有スル者ニハ最貴重ナル必需品ナリ然ルヲ六書ノ義ヲ解セズ篆法章法刀法ヲ?ゼザル庸工ノ手ニ一任シ設令ヒ誤字錯篆アルモ恬トシテ顧ミザルハ豈浩嘆ニ耐ユベケンヤ是レ實印ノ貴重ナル所以ヲ解セザルナリ江湖ノ君子實印ノ貴重スヘキ所以ヲ諒ニセヨ
印譜例(略)
受堂例(略)
○御注文ノ節物品代金ノ半額以上申受候事
弊堂ノ製品ハ他店ヨリハ高価ナレドモ彫刻ノ美ハ勿論誓テ華客ニ満足ヲ呈セン?ヲ期ス
以下略
祥雲堂印房 篆刻士 阿部芳蔵
広 告(明治三十四年七月発行の「峡中文学」第七号の誌上)
国産水晶印美術彫刻
風雅精巧高尚優美真に美術の名に恥ざらんことを期す
字体 篆隷楷行草及古印体の? 御望次第
刻科 壱文字に付金三拾銭以上金壱円以下御望次第
注文 前金又は代金引換小包なれば見積金の半額を前払とす
印材 一個に付き認印金三拾銭以上金壱円まで
実印金五拾銭以上金弐円まで
為替 は甲府局払渡の事
弊堂は明治維新前より開業継続する所にして幸い四方諸彦の眷顧を蒙り日に月に隆盛に赴き候段感謝の至りに候、依って自分益々励精刻料印材共々に価を軽減し以て其思遇に報いんとす 希くは倍旧御懇命あらんことを 「謹白」
注・主に地方で発行される文学雑誌を利用した宣伝広告である。右は国華堂篆刻師山田白峰の広告である。

水晶五重塔

モテギ株式会社 
〒400-0858  山梨県甲府市相生2-10-12
営業時間 10:00〜16:00 定休日:土曜・日曜・祝日・年末年始・盆休み ㊟予約をいただければ対応いたします。

Tel.070-2019-9500 蔵六(留守電に用件を入れてください)FAX:055-232-1226

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