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2023.07.07

印章:刻まれてきた歴史と文化・・その①

 山梨日日新聞連載「印章 刻まれてきた歴史と文化 県立博物館企画展から」

1.開催の経緯、金印「漢委奴国王」 3 17 日) 約3年続いた新型コロナ対策も5月には一区切りを迎えようとしている。「ステイホー ム」が求められたことも今では懐かしいが、仕事を自宅等で行う「テレワーク」が普及す る中で、書類に押印するためだけに出社しなければならない人の存在が取り上げられ、印 章・ハンコに批判的な言説も見受けられるようになった。 さらに、政府による行政改革の一環としての「押印見直し」政策が、「脱ハンコ」に拍車 をかける。狙いとしては、これまで必要以上に押印を求めていた行政手続きを見直すこと で、業務の効率化や申請者の負担減を図ろうというものだった。しかし巷間では「ハンコ 廃止」といった言葉が一人歩きしてしまい、印章業界は厳しい状況を強いられることにな った。 ただ、人類と印章・ハンコの関わりの歴史を紐解けば、「ハンコ廃止」の一言で片づけら れるほど簡単な問題ではないことがわかる。また山梨県は印章の生産量全国一を誇り、印 章産業は県を代表する地場産業の一つで、その歴史は150年以上に及ぶ。 いま大事なことは、安易なハンコ要否の議論ではなく、その歴史や文化を振り返ってみ ておくことではないかと考え、企画したのが、「印章刻まれてきた歴史と文化」である。 本展では、印章が果たしてきた役割とその変遷などについて、特に歴史的、文化・芸術的 な視点から紐解くとともに、山梨の伝統的産業である印章産業のあゆみを紹介することを 目指したものだ。 最初に注目していただきたいのが、福岡市博物館が所蔵する国宝「金印 漢委奴国王」 である。1784(天明4)年に志賀島(現在の福岡市東区)で発見された金印は、西暦 57年に後漢の光武帝が倭の奴国の使者に「印綬」を与えたとする「後漢書」の記載に符 合するものと考えられ、日本に現存する最も古い印章である。日本人と印章の関わりの起 点を金印に求めれば、約2千年の歴史を有するといえよう。今回、日本列島に暮らす人々 が初めて印章に出合ったことを象徴するものとして、3月21日(火・祝)までの期間限 定の特別公開となる。山梨初公開の貴重な国宝を、ぜひじっくりとご覧いただき、印章の 歴史・文化を思う契機としていただきたい。 展示では、古代律令制による文書への押印、戦国大名による印判状の発給、書画に用い られた印章と「印聖」高芙蓉による篆刻の変革、江戸~明治にかけ庶民に浸透した印章、 黎明期の山梨の印章産業などについて紹介している。一つ一つは小さな印章が語りかけて くる、日本人と印章の、長く多様な「刻まれてきた歴史と文化」に耳を傾けてい
ただきた い。 

2023.05.18

水晶の研磨技術と印材加工

 前述のとおり山梨県内の水晶の加工品は、やく三千~五千年前の石器時代の遺跡から水晶石簇が発見されたことにより登場するのであるが、次の弥生時代には全くその姿を見せず、古墳時代(紀元三世紀~八世紀)に至って副葬品の中から装身具となり玉となって発見され登場してくるのである。
山梨県下で水晶原石の発見は、約一千年前ごろとなるのであるが、研磨技術としては水晶のお国柄にふさわしく、昇仙峡の奥、甲武信山脈の金峰山一帯を中心として産出した水晶の原石を使って印章(ハンコ)の研磨は生成発展していくのであるが、研磨工業が発祥して約五百年余ということになり、伝統産業としてほこれるものである。
研磨の初期は手やすり鑢一本の加工であったが、やがて足踏みの回転盤に変わり、電動機研磨時代に入ってきたのである。置物・印材・装身具などの美術工芸品を生産しながら江戸時代から明治、大正、昭和、平成、と研磨技術は発展し現在に至っている。
南北朝時代の建武二年(一三三五)普明国師は、夢窓国師に従って上洛し、鹿王院の開山となるが、しばしば甲州から水晶の原石を取り寄せて京都の玉づくりに数珠を作らせたと『水晶宝飾史』にある。鹿王院の寺宝である水晶の如意宝珠(重要文化財)はみがき磨は最上であり甲州水晶の特徴である、くもりが見られるので甲州産の水晶で作ったことは間違いないという。
とにかく甲斐にゆかりの深い夢窓、普明両国師によって、すでに南北朝時代(一三三〇~一四〇〇)から甲州と京都の水晶による交流があったことが推察されるわけである。
水晶の研磨は、天保年間(一八三〇~一八四〇)に御岳の神官が京都の玉屋弥助の教えを受けた玉造りであるという定説があるが、いずれにしても山梨の水晶加工の技術発展は京都と結ばれていたことに間違いない。
御岳金桜神社社宝の「火の玉・水の玉」も原石は御岳産の水晶であるが、加工の年代も加工の場所も京都の玉屋という以外にはわかっていない。
甲州水晶加工の始祖ともいわれる玉屋弥助は寛政六年(一七九四)京都に生まれた。弥助は文化、天保と水晶原石の購入のため、いく度か甲州へ来ていたという。御岳(甲府市)で研磨加工の技術の指導をしたとも文献に見える。甲州人も御岳に加工工場を開設し、江戸末期には甲府市内に数多くの加工業者も現れ、以来印材の加工も盛んになり、山梨のハンコ(水晶)が有名になったのである。
天保八-九年(一八三七)頃より天保末年の数年間に、御岳の職人によって印材も作られたという。
嘉永七年(一八五四)発行の「甲府市買物独案内」に次の三軒の水晶細工工場の名がみえる。
柳町三丁目 深輪屋甚兵衛・柳町三丁目 土屋宗助・金井町 亀屋彦右衛門
の三業者である。
玉のほかに印材、根附、数珠、玉兎、富士形文鎮などがつくられていたという。
水晶印の篆刻は文久一~三年(一八六一~三)にはじまったといわれている。嘉永名七年(一八五四)に水晶工場を開いた土屋宗助は、岩渕(静岡県)の藤岡屋藤兵衛を代理店として東海地方に活発な取引をしたといわれている。三代目土屋松次郎(号松華)は篆刻を業とし、印判をつくり東海道筋にかけて篆刻の技術を教えて回ったという。
土屋の遠祖は、武田が滅亡した天目山の戦いで、片手千人切りの部名をとどろかせた、勝頼の臣、土屋惣蔵昌恒といい。宗助はそれより幾代か後の子孫であると伝承されている。その宗助が江戸末期に市川大門町より、甲府市の柳町へ移り住み水晶工場を開設した。
明治十一年(一八七八)長田市太郎の嫡男、長田宗善は、篆刻に専念没頭し、篆刻用印刀を作り篆刻が本格的に完成するのは明治二十年代であったといわれている。
明治六年(一八七三)十月一日、太政官令により国民の等しくがハンコを使用することの制度となり、甲州印章の時代の幕開けとなった。明治九年には山梨県(県令藤村紫朗)に勧業試験場が創設され、二年後には水晶加工部を併置し、水晶加工の伝習も行われるようになった。このようにして山梨県の三業物産の名品としてハンコが脚光を浴びるようになった。
明治二十年(一八八七)なかばから河内地方に多くの印章の販売業と篆刻業者が増加するにつれ、山梨県の印章は全国へ販路求め、印章王国山梨となっていったのである。

2023.05.12

印章:刻まれてきた歴史と文化・・その①

 

「印章 刻まれてきた歴史と文化 県立博物館企画展から」

 (1.開催の経緯、金印「漢委奴国王」 3 17 日)

約3年続いた新型コロナ対策も5月には一区切りを迎えようとしている。「ステイホー ム」が求められたことも今では懐かしいが、仕事を自宅等で行う「テレワーク」が普及す る中で、書類に押印するためだけに出社しなければならない人の存在が取り上げられ、印 章・ハンコに批判的な言説も見受けられるようになった。 さらに、政府による行政改革の一環としての「押印見直し」政策が、「脱ハンコ」に拍車 をかける。狙いとしては、これまで必要以上に押印を求めていた行政手続きを見直すこと で、業務の効率化や申請者の負担減を図ろうというものだった。

しかし巷間では「ハンコ 廃止」といった言葉が一人歩きしてしまい、印章業界は厳しい状況を強いられることにな った。 ただ、人類と印章・ハンコの関わりの歴史を紐解けば、「ハンコ廃止」の一言で片づけら れるほど簡単な問題ではないことがわかる。また山梨県は印章の生産量全国一を誇り、印 章産業は県を代表する地場産業の一つで、その歴史は150年以上に及ぶ。 いま大事なことは、安易なハンコ要否の議論ではなく、その歴史や文化を振り返ってみ ておくことではないかと考え、企画したのが、「印章刻まれてきた歴史と文化」である。

本展では、印章が果たしてきた役割とその変遷などについて、特に歴史的、文化・芸術的 な視点から紐解くとともに、山梨の伝統的産業である印章産業のあゆみを紹介することを 目指したものだ。 最初に注目していただきたいのが、福岡市博物館が所蔵する国宝「金印 漢委奴国王」 である。1784(天明4)年に志賀島(現在の福岡市東区)で発見された金印は、西暦 57年に後漢の光武帝が倭の奴国の使者に「印綬」を与えたとする「後漢書」の記載に符 合するものと考えられ、日本に現存する最も古い印章である。日本人と印章の関わりの起 点を金印に求めれば、約2千年の歴史を有するといえよう。今回、日本列島に暮らす人々 が初めて印章に出合ったことを象徴するものとして、3月21日(火・祝)までの期間限 定の特別公開となる

。山梨初公開の貴重な国宝を、ぜひじっくりとご覧いただき、印章の 歴史・文化を思う契機としていただきたい。 展示では、古代律令制による文書への押印、戦国大名による印判状の発給、書画に用い られた印章と「印聖」高芙蓉による篆刻の変革、江戸~明治にかけ庶民に浸透した印章、 黎明期の山梨の印章産業などについて紹介している。一つ一つは小さな印章が語りかけて くる、日本人と印章の、長く多様な「刻まれてきた歴史と文化」に耳を傾けてい

ただきた い。 

2023.01.19

水晶山開発の奨励

 水晶山開発の奨励
明治二年(一八六九)に新政府は、わが国の近代化を進めるにあたり、積極的に殖産興業に力を入れた。第一に地下資源の開発に目をむけることになり、同年二月、民間に鉱山開発を許可し試掘と売買を奨励した。水晶は幕末まで原石の採掘は許されず、かぎられた市場に出る製品は僅少であったが、新政府は試掘にあたって手当金の貸付までするようになった。
(一)御入用ノ儀ハ千両ニテモ弐千両ニテモ申出候ハハ御下ヶ相成候事
水晶山を開発するための資金を必要とするならば、申し出次第、千両でも二千両でもぐに下げ渡すという新政府の方針がうかがわれ、水晶抗之開発を刺激し、促進したことは言うまでもない。
明治三年には白須・大ヶ原村(白州町)横手村(白州町駒城)などから甲斐駒ケ岳の試掘の跡請があり、丹波山村(北都留郡)からも村内の泉水渓というところに水晶抗が見えたといい、新規百日間の試掘の願いが出されている。(『山梨県史』)
『甲斐国志』などに記載されている県内の水晶産地は前記の通りであるが、明治後も繁栄した山は金峰山周辺の水晶峠・倉沢山・向山・押出山・竹森山などであった。このほかに乙女鉱山(牧丘町)、八幡山(須玉町)、川端下(長野県・川上村)、市ノ瀬山(塩山市)、刑部平(同)、泉水渓(丹波山村)、船越(同)、鳳凰山麓獅子ノ木(武川)、駒ヶ岳(白州町)などの産地の名も上げられている。
しかし丹波山村では、明治三年(一八七〇)十二月から同四年三月まで試掘し、二回目を同年五月から八月まで。同四年十月から翌年正月まで三月にわたり較百日間ずつ延長承認で試掘したがついに水晶の生産は十分得ることなく終わっている。次々と大金を投入し、水晶山に対する投資は依然として盛んであったと『水晶宝飾史』に記されているが新規採掘は思うような成果を上げられなかったといわれている。
金峰山をめぐる各水晶鉱山の採掘最盛期には、御岳金桜神社の社領の住民たちは、米と味噌を背負って鉱山に分け入り、食料の続く限り幾日でも水晶の鉱筋を探し回った。幸いに一かま掘り当てれば連絡によって御岳や甲府から水晶の仲買人が集まり、市が立つほどで、これを目当てに臨時の飲食店や甲府から芸妓までが山に登ってきて大騒ぎの御岳にかわったといわれている。
乙女鉱山は、東山梨郡西保町(牧丘町)字北奥仙丈字倉沢。西山梨郡千代田村(甲府市)、および中巨摩郡宮本村黒平(甲府市)にわたる最も広大な水晶鉱山で、古来白色透明な良質の水晶を多く産出した鉱山であった。ことに透明な傾軸式双晶(写真参照)は、世界無比のものとして海外からも注目された。珍しい良品質の原石が産出されたので往来もはげしく奥山にしてはにぎわいをみせたという。
山梨県以外の国内水晶原石の主産地
(1)滋賀県の田の上山坑、苗木抗より煙水晶
(2)宮城県の小原抗より紫水晶
(3)鳥取県の藤屋抗より紫水晶
(4)福岡県の合戸抗より紅水晶
(5)秋田県の荒川鉱山より冠水晶
(6)新潟県の相川鉱山より水入水晶
等が主な産地として知られるところであるが、いずれも明治四十二年(一九〇九)から大正六年(一九一七)ごろにはほとんど採石はなく約十五年くらいで掘りつくされたという。大正になって山梨県も外国産の水晶を輸入しその需要に当てるようになった。

2023.01.05

山梨の水晶産地

 山梨の水晶産地
甲斐の水晶といえば、連想されるのが金峰山であろう。山梨の水晶産地は主に金峰山を中心とする関東山地と証する地域に集中している。甲府市北部から遠く武・信・上の三州にわたる広大な地域を占め、その最高点は金峰山(二五九五メートル)で朝日岳、甲武信岳等の二五〇〇メートル以上の高峰によって信・武と境をなし、笠取山から南走して甲府盆地の塩山に終わる支脈で国師岳から南西走して甲府市に終わる支脈。この間の谷間は笛吹川、金峰山より南西走するものは、茅ヶ岳とその裾野の竜王で終わる。この脈間に荒川を画し、御岳昇仙峡の絶景をつくり、花崗岩風景をあらわ露す。
金峰山より主脈は西走して横尾山に至り、一支脈の西南に派出するものがある。前支脈との間に塩川を涵養する。このように金峰山を中心にして集中しているのであり中でも甲府市黒平の向山坑から東山梨郡牧丘町の倉沢抗(乙女鉱山)、須玉町比志の押し出し抗は古くから透明良質の水晶を多く産出している。
金峰山麓での水晶の発見は天正三年(一五七五)で、今より約四百年前のことで、ちょうど武田勝頼が三河の設楽原(しだらがはら)で織田、徳川の連合軍に大敗した年であり、武田家滅亡の第一歩を踏み出したいわゆる長篠の戦いのあった年である。
伝承によれば水晶を発見したのは険しい山道を金峰山奥宮(甲府市の金桜神社は里宮)へ登山した行者だといわれているが、これを裏付ける資料はないが、甲州水晶の産地は金峰山を中心とする一帯地域で、金峰山には各所に露出した水晶が見られたであろうと文献に記述されている。
『甲斐国志』には、水晶は水精とあり、要するに書く水晶産地の山岳地帯を源流とする各河川の流水の流水が、あたかも清くすんだ透明の水晶からにじみ出た水の精のようであったことから「水精」としたものと思われる。
天正年間の織豊時代は、水晶採掘の制限はなかったと思われるので、自由に採掘しそのままきれいな石として珍重されたものといわれている。水晶の採掘が禁止されたのははっきりしないが、『銀山旧記』によれば、戦国時代には金銀の鉱山をめぐり豪族間に猛烈な争奪戦が行われたので、秀吉がこれを防ぐために鉱山奉行をおいて各地の鉱山を治め、財力をたくわえ、金張りの秀吉といわれるようになった。天下を掌握した家康もこれにならって金山奉行を設け、各地方の主要鉱山を直轄地としたことは有名である。
徳川家の金山奉行の大久保長安は、もともと武田家に仕え、武田家の財力に金山の採掘を開発して天下の武田と名を挙げたのも、大久保長安の鉱山技術であったからである。信玄によって開発された早川入りの保や、黒川千軒とうたわれた黒川金山(塩山市旧神金村)は有名であるが、黒川金山は真っ先に幕府直轄となって管理され、すべての山が幕府の方針によって、採掘や使用は一切禁止されたのである。
災害や自然崩落等により露出した水晶鉱石は幕府に届け出て後に払い下げられたようであるが、金峰山で発見された水晶が、これが最初であるという。 金桜神社の宮司のお話によると、金峰山の山頂に奥宮があり、医薬、禁厭(災難よけ)の守護神として、すくなひこのみこと少彦名命が鎮座され(二千年前)本宮となし、千五百年前に金峰山より御祭神を御岳に遷祀して里宮とし、数千年前より日本国中にその名を知られ、里宮から置く宮へと山岳信仰の盛んな江戸時代には特に行者の登山が多く、金峰山の水晶は、行者によって発見されたことは前述のとおりである。
金桜神社の社宝、火の玉・水の玉は有名である。「火の玉」は径一寸三分、径一寸の茶色透明の二個で、「水の玉」は径一寸強、径一寸、径五分の白色透明の三個で、あわせて五個の銘玉であるが、拝見させて頂けなかった。この玉は京都の玉造りに加工させたという。年代はつまびらかでない。
金桜神社から清川筋へ出る左折れの小さな峠の下り道がある。三十五年ほど前は土道で、水晶の破片が所せましと敷き詰めたように散乱していたのを思い出したが、今は全面舗装となってその面影はなかった。甲府方面へ水晶を搬出した主幹道であったと思われる。
甲府市黒平町上黒平の長老を訪ね、水晶の話を聞くことができた。その人は水晶研究科の藤原育弥さん(八十二歳)で明治時代より亡父が水晶原石の採掘を専業としており、大正時代に入り、父子で採掘の仕事をしていたという。「御岳千軒」という昔からの言い伝えについて藤原さんは、金峰山は古くより日本の三代御獄信仰霊場であり、多くの信者の登山があった。一五七八年(天正六年)金峰山から水晶が発見され、採掘工、加工職人、運搬人、それらを商う商人と人の交流が盛んになるにしたがい、日用品販売の商店、食堂、旅館、土産品店が軒を並べ、往来は盛大を極め、一時御岳町の沢沿いに千軒くらいの集落があったといわれているという。
黒平の水晶抗は、藤原さんの家の正面で南の山、県有林にある向山抗は、前述した鉱山を目前に見ることが出来た。しかし歩くと二時間はかかるという。明治四十年まで盛んに採掘されていたが、明治四十年前後の台風、水害による崩壊がいちじるしく採掘中止の状態となった。それ以後は先代とぼつぼつ、昭和二十年の終戦まで掘っていたが閉山したという。
向山抗(甲府市黒平町)の水晶の原石は、長さ三尺(約九〇センチ)のものが最大というが、これについては面白い話をきくことができた。採掘方法はたて穴式で、大穴方式といい、井戸彫りのように約一〇〇尺(約三〇メートル)もたてに掘り下げるため、鉱山を引き上げるのに村民が総出動して作業に従事したので別名村堀りといっていたそうである。
そのために三尺(約九〇センチ)以上の原石は危険なために穴の中に残して置いたそうである。採掘すると大きな原石のみがごろごろしているというのである。そこは今、水源凾養のため山地の崩壊の危険により手はつけられないままであるという。

2022.10.15

山梨水晶の原石発見

 山梨の水晶原石発見
東山梨郡牧丘西保地内および塩山市荻原重郎原地内で発見された縄文式、石器時代前期および中期遺跡(約三千~五千年前)の遺跡跡から水晶石鏃(やじり)、およびその材料となったと思われる水晶の原石が発見されたと文献にある。水晶石鏃の発見によりこのことは水晶が人間生活と交渉をもった最古の実証であるとともに、山梨県内における水晶加工の第一号ではないかといわれている。
石鏃というのは、石で作った弓用のやじりのことで、縄文式石器の一つであり、獲物をねらって弓を射る矢の先に付ける刃を水晶で作ったというものである。
江戸時代に山野に散らばっているこの石鏃を見た人々はその用途はさっぱりわからなかった。『甲斐国志』にこれを落星石(ほしのくそ)と書いてあるほどである。ほとんど石鏃は黒曜石で作られ、広い範囲で使用されており、関東地方では伊豆と信州の黒曜石が有名であり、県内の発掘遺物は信州和田峠産のものといわれている。そうした中にあって山梨県で水晶の石鏃が用いられたことは石器時代から水晶産地としてのお国柄をひょうすものであったということができ、水晶の発見も加工も先史時代までさかのぼることは明らかである。
水晶工房の発見はわが国で今までは二~三世紀の鳥取県大栄町の西高江遺跡で発見されたものが最も古いといわれてきたが、平成四年に京都府弥生町(丹後半島奈具岡遺跡・弥生時代中期・一世紀・玉づくりの大きな工房跡が二十棟のたて穴式住居跡で発掘されてあきらかになり、日本最古の水晶工房跡と発表された。平成四年九月)山梨県内でこうした水晶発掘の背景には、少なくともその周辺に水晶の産地がなければならないはずである。水晶原石が初めて発見されたのは約一千百年前ではないかと考えられるのが通説となっている。
塩山市竹森にある郷社玉諸神社の御神体は巨大な水晶の天然石である。『甲斐古社史考』によれば、同社は延喜式神名帳に記載されており、それは「延喜式」の編纂当時に官幣、もしくは国幣社になっていたことを証するもので、平安時代元慶年間(八七七から八五)のころまでと推定されているので、玉諸神社の「社記」には、天平十八年(七四六)の年号が記載されている。同社記に、「神体(は)者水晶(の)之玉石ナリ 高サ七尺余大サ六尺八寸廻り地中に(かく)隠るること限りを(しらず)不知」とある。明治初年に盗難に遭い今は囲い六十センチ、重さ三十キログラムくらいの透明の水晶原石が祭られている。
前記の式内社と決定された元慶年間からかぞえても一千百年以前から存在したことになるので水晶之御神体もそのころ発見されていたものであろう。(『水晶宝飾史』)
『甲斐国志』は文化十一(一八一四)年に成立した、甲斐国の地誌で、当時の著名な水晶、または石英の産地を記している。それによると金峰水晶瀑布・水晶峠、石水寺山・金子峠(甲府市)、竹森玉宮社中、牛奥通明神(塩山市)、天目山(大和村)、石森村水晶渓(山梨市)、河浦村雷平(三富村)、苗敷山(韮崎市)、浅川村水晶山(高嶺町)などが記されこれらの土地が注目されたことは明らかである。さらに横手山(竹川村)、押出山(須玉町)なども記録に残されている。

2022.09.10

山梨水晶の始まり

 

o   o    徳川時代までは、水晶の発掘は許されなかったので、世の中へ出た水晶の量は極めて少なく、それだけに人々に珍重されてきた。
 明治政府になって、鉱山法が公布されるに及んで、明治10年頃から激しい発掘が行われるようになった。当時は国内各地から水晶は掘り出されたが少量のもので、水晶最大の主産地は山梨の金峰山麓をとりまく鉱山群であった。明治以前の水晶は、自然に地表に露出したり、山崩れ等によって採取されたものが殆どであったが、その僅かな水晶をいろいろに加工してきた。
 最初の加工品は縄文期の石鏃(やじり)であった。平安時代に入ると水精(水晶)の念珠で陰陽を占ったという記録が「朝野群載」に記されている。鎌倉時代になると、念珠の外、仏像の白豪や眼玉に用いられるようになり、神社に於いては、大玉を御神体として祭るようになってきた。

o     年を経て享保年間(171635)に金峰山の水晶を京都の玉造りに加工させたと伝えられる「火の玉」「水の玉」等5個の銘玉が甲府市御岳町の金桜神社の社宝として、今も大切に祭られている。
 太古の昔から、水晶の産地として知られていた山梨。この地に本格的な水晶工芸が興ったのは江戸時代後期のことである。
 今から150年ほど前の江戸後期になると、甲州の水晶原石が京都に運ばれ、京都の研磨職人の手によって磨かれ、堂上公卿の人々に愛寵されるようになった。その頃京都の玉商の店「玉屋」の番頭弥助が京都から甲州へ原石仕入れに来た折りに、金桜神社の神官社家の人達に水晶の研磨法を教え、それから「山梨の水晶産地」が芽生えた。京都の玉屋弥助は甲州水晶の第一の恩人である。

 

2022.08.28

2022年 令和4年 8月28日 より 商品の掲載を始めました。

 素人が写真を撮っていますので、非常に分かりずらいと思います。現品を見てご確認いただく事が一番良いかなと考えています。

ご来店お待ちしております。

また、価格等のご相談には対応しますので、ご遠慮なくお申し付けください。

一日、5アイテム位のアップが限度で掲載をしていきます。

2022.08.09

いよいよ、商品の掲載を始めました。

 8月9日より、商品の掲載を始めました。これから順次いろいろな宝石印鑑をはじめとして、装身具類も掲載してまいります。当サイトは、通常のオンラインと違い、対面も重要視しています。価格の高いものは現物を見てお買い求めいただく事が一番いいと考えております。また、73歳の素人が写真撮りをしておりますので、現物と写真では相当の違いも出てくると思います。双方が気持ちよく居られるように、よろしくご協力お願いいたします。

2022.06.03

2022年・令和4年・水晶県山梨のサイト構築を開始いたしました。

 プログでは山梨水晶の歴史、ニュース等を書いていきたいと考えています。

サイト構築は本年度にはスタートをしたいと準備を進めています。

今日は、プログのテストみたいなものです。

水晶五重塔

モテギ株式会社 
〒400-0858  山梨県甲府市相生2-10-12
営業時間 10:00〜16:00 定休日:土曜・日曜・祝日・年末年始・盆休み ㊟予約をいただければ対応いたします。

Tel.070-2019-9500 蔵六(留守電に用件を入れてください)FAX:055-232-1226

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