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2023年10月
2023.10.28
山梨の篆刻家
山梨の篆刻家
印章篆刻の伝統を調べると、いろいろな説が見られる。織田時代の細字家は、苗字帯刀の篆刻師である。承応二年(一六五三)に中国より独立禅師が長崎へ渡来して篆刻を伝えたという伝承。延宝五年(一六七七)に中国より心越禅師が来朝して奈良の興福寺に住み篆刻の刀法を伝授した。など篆刻の伝承はさまざま伝えられている。
山梨県の篆刻家は、江戸時代中期の享保、天明(一七二二~八四)ころ、高芙蓉(本名大島孟彪)が有名である。出生は甲府市で、京都に遊学して教養を深め、有名な文人、画人とも親交が深く、画をよくし、特に篆刻かとしては印聖と称された人である。水晶篆刻の創始者ともいわれている。
明治・大正時代にかけて篆刻師、として活躍した有名人は『印章世界』の三井峡江は、「甲州印人伝」として次の十六氏をあげている。
大島芙蓉 安達畴邨 高田緑雲 河西鴨江 芦野楠山 斉藤香雲 山本硯堂 松浦羊言 望月楽天 河西笛州 標 兜谷 内藤香石 小林素峰 氏原小楠 遠藤拝山 鈴木桂洲
これらの篆刻家の弟子の中から優れた篆刻家が多数輩出していったのである。
明治二十七年六月発行の「甲斐繁昌記」による名篆刻師は次の通りである。
甲府市 含章堂 長田宗春 (穴山町一丁目西側)
玉潤堂 土屋松次郎 (八日町一丁目北側)
推金堂 土屋宗幸 (桜町四丁目東側)
金生堂 土屋友次郎 (柳町二丁目西側)
国華堂 山田白峰 (柳町三丁目大神宮前)
耕石堂 山内竹塢 (柳町三丁目西側)
金声堂 藤森奇谿 (常磐町第十銀行東)
岩間村 晶光堂 渡辺素堂
韮崎町 金精堂 新藤喜作
台ヶ原村 小倉屋 細田政造
このほか樋口硯斉、依田東渕の名が挙げられる。いずれも印章王国山梨を育み、生み出した篆刻の名人たちである。
注・一般的に篆刻とは石類、金属類を刻することをいい、彫刻とは木口物を刻することを呼んでいた。
2023.10.18
出商販売
出商販売
明治二十年(一八八七)、六郷町鴨狩津向の河西万次郎は、小田原から東海道筋・三重・京都・大阪・四国地方まで出張販売したという記録が河西家に残されている。(『六郷町誌』)
明治三十年(一八九七)前後の岩間足袋産業の崩壊とともに、遠藤常太郎(六郷町岩間)、望月政五郎(同町楠甫)らは、特に大々的に出商による印章販売を行い、売子(勢子ともいう)十数人を連れて水晶石の販売を続けていたという。印章のほか数珠、指輪・置物・印伝袋物等も商品の中に加えていったようである。副業であったハンコの販売がいよいよ専業に変わってゆく時代である。これらの販売員たちは正月と盆の二度・帰宅し、一年中全国を巡り木口印も加わり大分、業績を上げていたようである。
商いの方法としては、ある町で一週間から十日間くらい仮の店舗を設置し地方新聞に折り込み広告を出し出店を需要者に知らせ、店頭から町中に幟りを何本か建て、師から町へと次々と移動し、全国を巡回するという出張販売方式を取っていた。この方法は昭和十五年ごろまで続いたそうである。
2023.10.14
① 判子(ハンコ)文化を護る意味
① 判子(ハンコ)文化を護る意味
本当にハンコは『無用の長物』なのだろうか。河野太郎行革大臣が、行政改革の一つの柱として、行政手続き上の押印廃止を進めたことで、ハンコが悪者扱いされるにいたってしまったことは悲しむべきことであると私は思う。
伝統は、歴史のなかで取捨選択を繰り返してもなお人々によって守られてきたものであり、長い間の風雪に耐えながら蓄積されてきた叡智の結晶ともいえる。
千年以上にわたって用いられてきたハンコ文化を、目先の合理主義によっていとも簡単に廃止しまうことに何の迷いもないというのは、実におそろしいことではあるまいか。
便利でよい文化であるから長年用いられてきたのであり、『ハンコをどのようになくすか』でなく「なぜハンコが長年用いられてきたのか」の問題意識を向けてもらいたいと思う。
ハンコは、テレビなどが煽るように、本当に不便で不要なものなのか考えてみたい。
2023.10.10
通信販売
通信販売
水晶材は宝石に準ずるとあり(『水晶宝飾史』)、郵送することは禁止されていたのであるが、印章業界などの強い要望により、明治二十三年(一八九〇)に郵送が許可されたので、通信販売の道が開かれた。
明治三十四年(一九〇一)七月、甲府市柳町三丁目の国花堂篆刻師山田白峰が、水晶印の通信販売の広告をするとあり、これが最初の宣伝ではないかと思われる。このようにして明治二十年のなかば頃より山梨県下の印章販売は、通信行商と両論によた爆発的な売れ行きとなり篆刻師は販売の実績の向上とともに増加していった。六郷町のいわゆる河内地方では、大正三年(一九一四)落居村(六郷町)の遠藤良一が「甲南水晶商会々報」を発行し、その広告欄を使い印章販売をしたのが最初であるとされている。
昭和六年(一九三一)九月におきた満州事変を契機として、大陸(台湾・朝鮮を含む)に通信販売が進出するようになり、出商販売と共に盛んに行われるようになった。国中地方の通販業者は不明であるが、六郷町には大手の通販業者が設立され国内はもとより、海外への営業を伸ばし大もうけ儲したようである。当時の大手通信販売業者は、
昭和八年 日本水晶(株) 笠井暉一 (旧岩間)
昭和九年 帝国水晶(株) 笠井善三 (旧楠甫)
昭和九年 日満水晶(株) 遠藤政一 (旧落居)
昭和九年 甲州水晶(株) 都築尭春 (旧岩間)
昭和九年 東洋水晶(株) 望月修三 (旧落居)
昭和九年 昭和水晶(株) 鈴木 奏 (旧鴨狩津向)
このほか大小の国内向けの通信業者が多数あった。
山梨水晶(株)米沢良知(下部町)は、昭和初期より通信販売を開業し、噴射篆刻法を開発した。昭和十二年ごろには甲府市桜町(中央四丁目)に篆刻師を多数雇用して生産まで一貫した大々的な会社を設立した。
昭和十六年、太平洋戦争に突入すると、若者は出征・微用に狩り出され、昭和十五年の「奢侈品等製造販売制限規則」の実施等により、印章経営に大きな影響を与えるようになり、昭和十七年「企業整備令」が発令されるなど、戦時色はいっそう深まり業者は自然淘汰のかたちで消滅していった。
2023.10.04
通信販売と出商販売
通信販売と出商販売
出商の始まりは明治三十年(一八九七)前後といわれ、通信販売も明治三十六年(一九〇三)にははじまっており、「甲府物産商報」の中にはぶどう酒・ワシなどもいっしょに通販の商品となっている。明治三十六年に国鉄甲府-八王子間が、同三十九年には塩尻まで開通するに当たり出商販売もますます盛んとなり、明治四十年(一九〇七)頃よりハンコ産業の隆盛期が出現するのである。
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