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2022.09.10
山梨水晶の始まり
o o 徳川時代までは、水晶の発掘は許されなかったので、世の中へ出た水晶の量は極めて少なく、それだけに人々に珍重されてきた。
明治政府になって、鉱山法が公布されるに及んで、明治10年頃から激しい発掘が行われるようになった。当時は国内各地から水晶は掘り出されたが少量のもので、水晶最大の主産地は山梨の金峰山麓をとりまく鉱山群であった。明治以前の水晶は、自然に地表に露出したり、山崩れ等によって採取されたものが殆どであったが、その僅かな水晶をいろいろに加工してきた。
最初の加工品は縄文期の石鏃(やじり)であった。平安時代に入ると水精(水晶)の念珠で陰陽を占ったという記録が「朝野群載」に記されている。鎌倉時代になると、念珠の外、仏像の白豪や眼玉に用いられるようになり、神社に於いては、大玉を御神体として祭るようになってきた。
o 年を経て享保年間(1716~35)に金峰山の水晶を京都の玉造りに加工させたと伝えられる「火の玉」「水の玉」等5個の銘玉が甲府市御岳町の金桜神社の社宝として、今も大切に祭られている。
太古の昔から、水晶の産地として知られていた山梨。この地に本格的な水晶工芸が興ったのは江戸時代後期のことである。
今から150年ほど前の江戸後期になると、甲州の水晶原石が京都に運ばれ、京都の研磨職人の手によって磨かれ、堂上公卿の人々に愛寵されるようになった。その頃京都の玉商の店「玉屋」の番頭弥助が京都から甲州へ原石仕入れに来た折りに、金桜神社の神官社家の人達に水晶の研磨法を教え、それから「山梨の水晶産地」が芽生えた。京都の玉屋弥助は甲州水晶の第一の恩人である。